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第六話 空になった家

Author: 月歌
last update publish date: 2026-08-10 20:22:29

翌朝、沙耶は夜が明ける前に目を覚ました。

ほとんど眠れなかった。

衣装部屋には、三年間で増えた服や靴が並んでいる。けれど旅行鞄へ詰めたのは、結婚前から持っていたものと、当面の生活に必要な品だけだった。

黒崎家から贈られた宝石も、怜司に買ってもらった服も持っていかない。

淡い青色のワンピースを手にしたときだけ、指が止まった。

以前、怜司が一度だけ「似合っている」と言った服だった。

たった一言だった。

それなのに嬉しくて、その後何度も袖を通した。

沙耶はしばらく生地を指先で撫でたあと、静かに元の場所へ戻した。

思い出まで持ち出せば、いつまでも手放せない気がした。

身支度を整え、最後に超音波写真と、母子手帳を受け取るための案内をバッグへ入れる。

昨夜、宗一郎へ電話をかけた。

離婚することになったので、家へ帰らせてほしい。

それだけしか言えなかった。

階段のことも、美玲のことも、妊娠のことも、まだ話せなかった。

宗一郎は理由を問いたださなかった。

――帰ってこい。

短い一言を聞いた瞬間、張りつめていたものが崩れそうになった。

帰る場所がある。

そう思っただけで、涙が出そうになった。

沙耶は旅行鞄を手に、玄関ホールへ下りた。

そこに怜司が立っていた。

早朝にもかかわらず、すでにスーツを着ている。

沙耶の姿を見ると、その視線が足元の旅行鞄へ落ちた。

「もう出るのか」

「昨日、お伝えしました」

「荷物が少なすぎる」

「持っていくものは、これで全部です」

怜司の眉間に皺が寄った。

「残りはどうする」

「黒崎家からいただいたものは置いていきます。処分してください」

「感情的になるな」

低い声だった。

「落ち着くまで、この家にいても構わない」

沙耶は一瞬、何を言われたのか分からなかった。

「離婚を求めた人と、同じ家で暮らし続けろと言うのですか」

「美玲がすぐこの家へ来るわけじゃない」

すぐ。

その言葉が、胸の奥へ冷たく沈んだ。

すぐではない。

なら、いずれは。

美玲がこの家に入り、自分が使っていた部屋を歩き、怜司と同じ食卓につく。

想像するだけで息が苦しくなった。

「それなら、なおさら早く出ていきます」

「沙耶」

怜司が一歩近づいた。

沙耶は旅行鞄の持ち手を強く握る。

そこで、昨夜から胸に残っていたことを思い出した。

「防犯映像は確認しましたか」

怜司の足が止まる。

少しの間があった。

「確認した」

予想していなかった答えに、沙耶は顔を上げた。

「では、私が押していないと分かったでしょう」

「そこまでは分からない」

胸が冷える。

「どういう意味ですか」

「俺が見たのは、転落の前後を切り出した短い映像だけだ」

「短い映像?」

「警備担当に、事故の前後だけを出させた」

沙耶は怜司を見つめた。

「それで、何が映っていたのですか」

「美玲が落ちるところと、おまえが階段の途中で手を伸ばしているところだ」

「私は助けようとしたんです」

「映像だけでは、そうとは断定できない」

「私が美玲さんに触れたところは映っていましたか」

怜司はすぐには答えなかった。

その沈黙で分かった。

「映っていないのですね」

「押していないとも確認できない」

沙耶は息を呑んだ。

押したところは映っていない。

自分が触れたところも映っていない。

それなのに、なぜ結論だけが残るのだろう。

「では、元の録画を確認してください」

怜司の表情がわずかに険しくなった。

「元の録画?」

「事故の前後だけではなく、その前からです」

美玲が自分から階段へ向かったこと。

逃げると言いながら上へ進んだこと。

二人の間に距離があったこと。

途中で、美玲のほうから一段下りてきたこと。

すべてがどこまで映っているのかは分からない。

それでも、短く切り取られた数秒よりは、ずっと多くの事実が残っているはずだ。

「最初から見れば分かることがあるはずです」

「そこまで調べる必要があるのか」

沙耶は耳を疑った。

「必要がないと、本気で思っているのですか」

「美玲は警察へ届けないと言っている」

「警察へ届けるかどうかの話ではありません」

「これ以上、騒ぎを大きくする必要はない」

「騒ぎを大きくしたくないのは、美玲さんのためですか」

怜司の目が細くなる。

沙耶は、それでも言葉を止めなかった。

「それとも、自分が間違っていたと知るのが怖いからですか」

「言葉を選べ」

「選んでいます」

声は震えていた。

けれど、目は逸らさなかった。

「あなたが見たのは、ほんの一部でしょう」

「俺自身も、美玲が落ちるところを見た」

「落ち始めた瞬間を見たのですか」

怜司が黙った。

沙耶の胸が締めつけられる。

「私が美玲さんへ触れるところを見たのですか」

「……いや」

「それなのに、美玲さんが押されたと言えば信じる。私が触れていないと言っても、信じない」

「沙耶」

「私を信じてほしいとだけ言っているのではありません」

沙耶は一度、息を整えた。

「私を信じられないなら、それでもいい。でも、美玲さんの言葉も信じないでください」

怜司の表情が止まった。

「誰の言葉を選ぶのでもなく、事実を確かめてください」

それだけだった。

自分を無条件に信じろと言っているのではない。

ただ、疑うなら同じように双方を疑ってほしい。

三年間夫婦だったからではなく、一人の人間として、それくらい公平に扱ってほしかった。

「美玲は、おまえを訴えないと言っている」

怜司が低く言った。

その言葉を聞いた瞬間、沙耶の中で何かが静かに切れた。

「私は、訴えられるようなことはしていません」

「騒ぎを収めようとしているだけだ」

「私の名誉も、真実も、どうでもいいのですね」

「そうは言っていない」

「なら、元の録画を確認してください」

怜司は答えなかった。

ほんの少しだけ。

沙耶はまだ、期待していた。

分かった、と言ってくれるのではないか。

警備担当へ連絡して、元の映像を確認すると。

自分の言葉を信じきれなくても、確かめることだけはしてくれるのではないか。

けれど、その一言は返ってこなかった。

沙耶は傍らの旅行鞄へ手を伸ばし、玄関扉へ向かった。

「車を出させる」

「結構です。祖父の運転手が迎えに来ます」

「宗一郎さんには、すべて話したのか」

「まだです」

怜司の顔から、わずかに緊張が抜けたように見えた。

その変化に、沙耶の胸が冷えた。

高瀬への影響を気にしたのだろうか。

最後まで、この人が恐れているのは自分を失うことではない。

会社同士の関係が壊れることなのだ。

「会社のことは――」

「もう聞きました」

沙耶は遮った。

「何度も聞きました」

怜司が黙る。

「都合のいいときだけ、夫のように振る舞わないでください」

その顔がわずかに歪んだ。

以前なら、その表情を見ただけで後悔しただろう。

傷つけたくない。

嫌われたくない。

だからいつも、自分の言葉を飲み込んできた。

けれど、もう彼の痛みまで引き受けることはできない。

沙耶は扉へ手をかけた。

「さようなら、怜司さん」

朝の冷たい空気が流れ込んでくる。

門の前には、大橋の運転する車が停まっていた。

沙耶は旅行鞄を引き、外へ出る。

大橋が駆け寄り、黙って旅行鞄を受け取った。

何も聞かないその優しさに、また泣きそうになる。

後部座席へ乗り込み、扉が閉まる。

車がゆっくりと動き出した。

黒崎邸の門を抜けても、沙耶は後ろを見なかった。

三年間暮らした家が遠ざかっていく。

胸は痛んだ。

それでも、戻りたいとは口にしなかった。

あの家に残してきたのは、服や宝石だけではない。

怜司に愛される日を待ち続けた、三年間の自分もだった。

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